林明輝 「Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて」 を読んで


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すこし登場人物であるカオリの外見と内面に伴う音楽性を語ってみたい。
現実世界にも含まれる事だが、マンガにおいて外見は内面を映す鏡と言っても過言ではありません。
例えば2006年現在の現実世界で、男子高校生がボンタン(極太ズボン)に長ラン(すその長い制服)にリーゼントの男の子がいたとしよう。
そんな古臭いファッションを僕が見つけたら「うわぁ」と喜び勇んで天然記念物を見つけたかのように発狂するだろうが、
それが80年代以前であれば僕は恐怖のあまり触らぬ神になんとやら近づきもしないだろう。
今現在で言うならば、渋谷の通りを歩いていて前からごついB系男子がやってきたら、
危ないモノを売りつけられそうだから思わず道を譲ってしまうようなものだろうか。
矛盾した発言になりますが、実際に外見と内面が比例した関係であるとは言いませんし、
必ずしも外見は内面を映す鏡だとも言い切れる事柄ではありません。(刑事コロンボはいい例かもしれない)
ですが、マンガの初期段階で登場人物がどのようなキャラクターなのかというのを読者に一目で理解させるのは
容姿やファッションといった外見は大変に重要な要素であると思われる。
そのような点も含めて、カオリの外見からの要素と内面からの要素を取り上げて音楽性を見つめてみよう。

カオリの外見的なファッションを見る限りでは、ドレッドヘアにB系ファッションをこなしている。
(B系とはヒップホップ、R&Bを中心に傾倒するブラックファッション。ちなみにB系というジャンルは日本のみに通用する)
カオリが初めて歌っているシーンが登場するのは1巻P111の最後のコマからである。
それも次のP112までのたった3コマという少なさである。
その3コマで分かる事は、カオリはヒップホップやR&Bといった
その当時から現在に至るJ-POPの中心的と言ってもいいであろうジャンルを歌っている事だ。
理由はP111(図:A)の最後のコマでカオリの後ろでラップを刻んでいるのであろう男性が映っていると同時に、
P112(図:@)の1コマ目でカオリを囲んでいるダンサーがファッションやダンススタイルから察して
R&B系の歌をうたっているのだろうと簡単に仮定する事が出来る。
カオリというキャラクターは外見的にはB系ファッションという要素で、
カオリが表現している音楽レベルでの内面はヒップホップやR&Bを歌う歌手である事によって、
表層的であれ内面と外見が一致している事が分かるだろう。
このカオリが普段着ているファッションの継続によって読者はカオリの言動も含めて、
どのようなキャラクターであり歌手であるかの想像が可能であり、
それが音楽表現のシーンになった時に演奏時の状況も含めて外見から音楽を想像し聴き取る土台が完成されていると
仮定する事は突飛めいた事ではないと思う。

しかし、カオリの音楽的な内面と外見の一致は1巻P113からの「あたしなんて踊らされてるだけだわ……」
というカオリ自身の発言で崩壊する。
これは非常に面白い発言で、今まで構築してきたカオリというキャラクターの自己破壊と自己修復の
物語に発展するシーンでもある。
ここで栄一の試合の影響を受けてか、カオリは心に燻っていたコンプレックスがここで爆発する。
カオリは商業音楽の中でカオリという商品を作られてラッピングされている自分に嫌悪している事を改めて認識し、
等身大で自分自身のありのままを魅せたいという一種の作家性や表現主義のようなものが確かなものとして芽生える。
これはカオリが持っている過去の清算やアーティストとして認知されたいという、
少女の課題というよりも青年の課題として表面化される。
強引に言えば、このマンガに登場している主要な人物らの実年齢こそ青年もしくは十分に大人の域に達している者達だが、
この登場人物らは大人の論理(社会や他人)に対して子供の論理(自身の正義)を基に大人へ成長したい対抗したいという
青年の課題(よりよい自分と社会の渇望)を持った物語でもあるのだ。
ここで言うカオリにとっての、大人の論理とは事務所の戦略でヒップホップやR&Bの真似ごと路線で大勢のスタッフによってラッピングされることで、
カオリの子供の論理とはカオリ自身のオリジナルを表現したいアーティストと呼ばれたいという願望である。
カオリが子供の論理を盾に青年の課題とする主張は、子供と大人の論理をバッティングさせ、
そこからケミストリーが生まれるという少々手荒な方法であるが、大人へのステップとも受け取れる。


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