●日本にやってきた西洋の音楽と一歩


今、生活する上で西洋の音楽を聴かない日は有り得ないだろう。
逆に日本古来の民謡や明治以降の日本独特の唱歌、演歌を聴く機会の方が少ないと思う。
今の日本は西洋の音楽が常識となり、自国の音楽となっているが、今日に至る西洋音楽、

日本に西洋の音楽がやってきた流れというのは、大まかに分けてみっつと言われている。
一つ目は、戦国時代に布教のためにやって来たスペインやポルトガルからやって来たカトリックの宣教師の影響だろう。
代表的な宣教師は1549年にやって来たイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルで、彼ら宣教師の活動による教会音楽のグレゴリオ聖歌、
当時の流行音楽であったルネサンス音楽が輸入された。
1601年のイエズス会年報には、なんと日本でオルガンを製作したという記録も残されている。
その後、1614年の徳川幕府が行ったキリスト教の弾圧、鎖国の影響により、60年余り続いた西洋の音楽や楽器、資料は一切処分され、
隠れキリシタンの口伝「オラショ」を除いて日本から西洋音楽の文化が消えてしまった。
 しかし、文化の火は消えてしまっても全く西洋音楽が日本に持ち込まれないわけではなかった。

ここで二つ目の流れとなるわけで、鎖国時代の日本で中国の他に唯一貿易が許されたオランダとの交渉の場である長崎の出島の存在と、
不運にも漁業などで漂流して海外で難を逃れ無事に帰国した者たちが登場する。
出島にはバロック時代から古典派、初期ロマン派の音楽が輸入されたと考えられるが、日本への文化の火までには至らなかった。
なぜなら、出島の大きさは1.3ヘクタール(東京ドームの3分の1)にすぎず、貿易といっても現代のように頻繁ではなく年に数える程度で、
出島の住人の数も決して多くなかった。
また、鎖国の時代であるために幕府の目は厳しく、出島に収容されたオランダ人は世間との情報が隔絶にあり相当に暇を持て余し、
一種の島流し状態であったからである。
 また、漂流した日本人を通して海外の音楽が伝えられた事例もある。
代表的なのが大黒屋光太夫で、運輸船で米を運んでいる最中に漂流し、アリューシャン列島のひとつに漂着してからロシアを経由し、
9年の歳月を経て帰国した人物である。
大黒屋光太夫はロシアの文化や情報を多くの識者に伝え、特に蘭学の発展に大きく寄与したが、
西洋音楽に関しては文化としての情報を伝えるにとどまった。
他にも海外に漂着した日本人が帰国し、ハワイやメキシコの音楽情報を持ち帰った事例はあるが、
音楽そのものを口伝で歌われたが、文化には至らなかった。
 
最後に今日の音楽風景に至る事となる三つ目の流れで、1853年の中期ロマン派に当たる時期にペリー率いる黒船が浦賀に来航し、
200年以上続いた鎖国体制は終止符を打ち、日本は鎖国の江戸から文明開化の明治へと移り変わり、
積極的に西洋音楽を取り入れることとなる。
まだまだ、この時代はジャズもなければ、ましてやロックなど存在していない。
しかし、軍楽隊のマーチや教会音楽の聖歌、外国人オーケストラによるクラシック演奏などが多く輸入され、
日本人が積極的に学び独自の音楽とするまで大した時間がかかるわけではなく、東京芸術大学の前身である音楽取調掛を設置、
日本固有の音楽と西洋の音楽との共存共栄を模索し始め、
日本の音楽という自覚と更なるより良い幸福な音楽を求め日本独自の音楽の道を歩む一歩となる。


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