北条司 「少年たちのいた夏 Melody of Jenny」 を読んで


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文庫版のP109に物語も中盤を過ぎた頃にやっと横笛の音色が聴こえてくる。
作家には得手不得手というのがあると思う。北条司の作風はやはり柔らかい温もりさよりも、エネルギッシュでスピード感だと思うわけで、
北条司の音表現は個人的には少々見応えが無かったというのが本心だ。
少年たちが寝ているところに笛の音色が聴こえてくる訳だが、
少年たちの耳元に届く音色が音符の羅列とアメリカ人が吹いている音色が天の川のような表現をされたときは、
当時の僕は騙されたけど、今の僕にとっては陳腐のような気がする。
ただ、それは今の僕にとっては陳腐なわけで、当時の僕や今の少年に対しては正しい表現なのだと思う。
斬新な表現が必ずしも適切または適当な表現ではないし、多数の支持を受けるわけでもない。
この笛を吹いているという状況描写の判り易さが少年マンガ誌の基本であり、マンガとして発展してきた経緯なのだと僕は思っている。

P109の5コマ目で「ひいっ 聞くな 聞いちゃだめだ!!」と少年の一人は言っている。
その瞬間に状況的にアメリカ人は邦楽や雅楽を吹いていないことはわかる。近くにアメリカ人しかいないとはいえ、
邦楽や雅楽だったら少年たちの反応は違っているはずである。
6コマ目にあるように「敵の音楽だ 聞くやつは非国民だぞ!!」と当時のステレオタイプな少年が叫んでいるように、
明らかに西洋音楽を吹いていることがわかるはずだ。
では何を演奏しているのだろうか?

母親に会いたい為に泣き出した和子という少女が笛の音色を聴いて泣き止んだように、多分とてもやわらかな音色で落ち着くような曲なのだろう。
アメリカ人が吹いているわけだから記号的にジャズということも考えられるけど、横笛という性質上や状況的に、
スタンダードだったとしても状況的に考えられない。
ということは多分、”敵の音楽”という記号上クラシックを吹いていることが妥当だろう。
たぶん「アヴェ・マリア」とか「タイスの瞑想曲」あたりの美しい調べを奏でていたのだと思う。
(まあ深読みをしなくても物語の最後で主人公がクラシック奏者だということがわかるから、クラシックを演奏していたのだろうと状況は掴めるのだけどね)
まあ、描かれている横笛のサイズは楽器で言うとピッコロあたりなので、すごく甲高くて五月蝿そうだけど、
そのか細くてひ弱な感じが、その先にある物語の悲劇さを物語っているようにも思える。
同時にその横笛をきっかけに物語の幸福さに悲しさを残しながらも締め括られるツールは大事な存在として描かれている。

僕は” 「アヴェ・マリア」とか「タイスの瞑想曲」あたりの美しい調べを奏でていたのだと思う”と前述したが、
物語の最後の締めくくりにはディヴと隆が演奏している曲名があえて書かれていない。
「今も コンサートの最後にテイブの笛を吹く…あの曲を吹く」(P149)と主人公の隆は心の言葉で物語を締めくくるわけだけど、
”あの曲を吹く”と書かれている。
状況的には”あの曲を吹く”が正しいし、それ以上の言葉はないのだけど、”あの曲を吹く”という言葉によって、
読者一人ひとりに一人ひとりの音楽を奏でさせている効果があるのだと思う。
既存の曲ではなく、一人の心にある、かけがえのない心の音楽というのを北条司は示している。
音楽というのがマンガという2次元の中においても、心と心が触れ合い、揺さぶるものがあるのだと気付かされる貴重な作品だ。


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