さいとうちほ 「オペラ座で待ってて」 を読んで


2

ファンであれば、さいとうちほが幼少の頃から宝塚歌劇のファンであり、さいとう自身も少なからず宝塚に対しての夢は持っていた。
結果として、彼女はマンガ家として活躍することになっているわけだけど、彼女の演劇やバレエなどといった舞台芸術に対しての造詣は深く、
また彼女の作品が宝塚で扱われるなど、さいとうちほの作品性が舞台芸術(舞台演出のようなマンガ)という
様式美を一貫していることが多くの作品からお分かりだと思う。
また、その一貫したその様式美は多くの女性に受け入れられ、華麗なる少女マンガを更なる華やかさで彩らせた作家なのだ。

人間本来の動きで自然に演技をすることだけが演技・演劇ではない。
極端に誇張し、動きを大袈裟に見せることも演劇のひとつであり、演劇には多種多様な作法がある。
ひとつの例を取り上げてみたい。
宝塚が「ベルサイユのばら」を初演の1974年に歌舞伎女形出身の名優長谷川一夫が演出に招かれた。
彼は歌舞伎や演劇・映画の世界で培ってきた客に魅せる技術を徹底的に役者へ叩き込んだ。
アンドレがオスカルを抱き上げる姿勢、少女マンガ特有である星の目は照明を利用して魅せる技術、一つの所作にも観客を魅了する技の数々。
宝塚をご覧になった方々で所作を真似したことがあるだろうか?
人を抱き上げるなど、戦おうとするなどといった姿勢の大半は、観客に対してどのようにかっこよく、
美しく、華やかに魅了し感動させるかが重要であり技術なので、ちょっと真似してみると、とても不自然な体勢で関節が痛いのだ。
その大袈裟とも受け取れる動きや演出が宝塚そのものであり、様式美なのだ。
長谷川一夫は「客の心を動かすには、技がなければ駄目だ」という名言を残している。

僕が言いたいのは、「有り得ない姿勢だけど、かっこいい」というのを伝えたいのだ。
もうひとつ例えを出すべきだろうか?
金田伊功という有名なアニメーターがいるが、彼には”金田ポーズ・金田パース・金田とび”という演出名を馳せるほど、
彼が描く誇張した人間の動きやリアリズムを無視した構図は多くの人々の目を惹きつけ
「有り得ない姿勢・体勢だけど、かっこいい・可愛い」という新たな様式美を提示した。
長谷川一夫も金田伊功も畠こそ全く違うが、表現技術において全く同じことを唱え実践しているのだ。

さいとうちほが描いた、あるとの演奏シーンもこういった表現技術の上にあり、さいとうちほ独特の様式美が確立されているのだと思う。
特にP44のあるとの演奏姿勢を実際に僕がやってみると、「ん?」ってなる。
しかし、登場人物に感情移入し物語を追って読んでいくと、その不自然さは気がつかないし(普通は気付かない)、
逆に”かっこいい・優雅・華麗・惚れ惚れする”を大前提に押し出しているので、その姿はかっこいいのだ。
他の作者の作品での音楽演奏シーンは、多くの場合において、いかにリアルに演奏をしているように見せるか、
いかに音が聴こえるようにマンガ表現を駆使するかに力を割いていると思われる。
さいとうちほは、それを逆手にとってリアリズムを追求するのではなく、”かっこいい・優雅・華麗・惚れ惚れする”
などを前提とした大胆な演出や描写を押し出すことによって、目に見えない音楽というのを他の作者とは違った角度から表現している。
そして、その表現はさいとうちほの様式美にもなっているわけで、音楽表現だけでなく作品全体にも一貫し、
さいとうちほの作家性を押し上げ突出した作品を作り出している。


もどる 次へ

inserted by FC2 system