紡木たく 「机をステージに」 を読んで


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僕は紡木たくの作品を読むといつもどのように接したらよいものか、ものすごく悩む。
「机をステージに」が連載されたのは1985年(別マ8〜11)で、当時の僕はまだ小学2年なのでリアルタイムでは当然読んでいないのだけど、
思春期の少年少女が必ずと言っていい儀式的な成長過程の物語(僕はこれを”太宰治的構造”と呼んでいる)である。
僕が高校生になるのは10年後なわけで、僕らの世代がなんとか素直に理解できるような作品じゃないだろうか?

なぜそう思うかというと、僕が中学に入学する年に平成と元号が変わり、卒業する頃に湾岸戦争が始まると同時にバブルが崩壊して
日本人のアイデンティティが変わり始まる世代に思春期に入る。
高校時代には阪神大震災やサリン事件などで精神的欝に入る世代であると同時に日本人のアイデンティティが相対化できなくなってくるわけで、
僕らを中心に年齢が二つほど変わるだけで内面的にも外見的にも違いが顕著になってくる。
僕らは80年代までの”幸せな日本”を多感な幼少期に体験し、思春期までになんとかバブル的雰囲気を体感しているから、
尾崎豊的な内向的エネルギーの発散を理解できるのだけど、
僕より二つほど年齢が下がるとバブルの余波を思春期に感じたことが出来たとしても社会的には明らかに欝に入っているので、
紡木たくのような作品を真正面から受け止めるには精神的な構造に違いがありすぎるだろうし、
ましてや現在の若者(21世紀世代)にとってはますます読みづらい作品と思うのは僕の杞憂に過ぎないのだろうか。
 
ただ、注意してもらいたいのは、「ホットロード」に至るまで(紡木たくが筆を置くまで)、当時の少女たちにとって紡木たくという存在は、
思春期独特の問題意識を持つ少女たちの気持ちを代弁し心を映す鏡であるカリスマ的な作家であったことを覚えて欲しい。
 
前置きが長くなってしまったけど、物語は佐藤真紀と高屋恵、山本寛暁の3人が高校生活の中で反発や誤解を通じて成長をしていく学園物語で、
主人公たちが物語の中で”マーガレット”というバンドを組み、バンドがロック的な精神を映していたとしても、
あくまで大人や社会からの反発という為のツールでしかなく、音楽マンガではないだろうし、青春マンガとして素直に読むのが正しい姿だと思う。
 
“マーガレット”というバンドが現れるシーンは文庫版P19で、ページをめくりP20では演奏が終わってバンド名の紹介を終えている(図:1)。
“マーガレット”っつーバンド名はいかがなもんか?という突っ込みがお約束としても、
どんな音楽が演奏されていたかはある程度の想像ができるけれども、どのような歌詞が歌われていたかは読者の想像力に任せている。
しかし、この回想シーンでわかることは佐藤真紀の心の声(図:2、P20・21)で
「高屋くんは… キレイなうたをつくる だれでも 心に思ってること うたってる…… 無口な 高屋くん……」
と語っているわけで、教師達を含んだ大人達ではなく、
思春期の少年少女が必ず持つ一種独特な内向的エネルギーや封鎖的葛藤を端的に表しているのだと思う。


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